to be with you
LINEほど便利で広く使われているアプリを僕は他にはちょっと知らない。
スマートフォンが普及して1人1台は当たり前の時代で、このLINEは多分殆どのユーザーによりインストールされ、メール、チャット、通話だけでなくゲーム、ショッピングなんてものもある。
メッセージも簡単に作成でき、写真を保存しておくアルバムの機能まで搭載されている。受信者が開いたかどうかの"既読"の機能は、良い意味でも悪い意味でも社会問題に発展するほど「便利」な機能だ。しかもこれら全て無料で利用する事ができる。課金すればアプリ内のデザインを変更できたりメッセージの代わりとしての"スタンプ"を買うこともでき、カスタマイズする楽しみもある。今や自分自身のメールアドレスを知らない人も少なくなく、従来のメールの機能は形骸化が進んでいる。
確かに凄く便利で、利用しない手はない。
僕も普段の連絡はLINEで取ることが殆どだ。
でも果たして、"手段"であるはずのLINEが"目的"に変わってしまってしまったとしたら、僕らは果たしてそれを"利用している"と言えるだろうか。
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スマートフォンが故障したことで修理に向かったある日、隣に座った30台前半風の女性が「過去のLINEはどうにかなりませんか、それがないと困るんです」と一生懸命店員に質問していた。「お客様、アカウントのIDとパスワードを忘れてしまっては私たちどもでは…」
もしかすればその人にとってとても大切な写真が入っていたり、消したくない恋人とのやり取りがあったりするのかもしれない。
気持ちは分かるのだが、その光景は人間がLINEという媒体に依存…いや寧ろ"利用させられている"姿を第三者的視点で見たような気がして、ちょっとびっくりしてしまった。
皆がスマートフォンを見ている。
電車で、会社で、外出先で、或いは家庭のリビングですら、面と向かっているのに手に持つ機械に目を落とし話をしない。
こんな"利用させられている"光景が普通に見られるようになったのは、異常とも呼べるかもしれない。
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デジタルとアナログならば、僕はアナログを取る。
言わずもがな、デジタルは様々な点で簡便だ。時間に追われる現代人にはフィットし易いし、その点では享受している自分もいるので否定はできない。物として存在しないから状態も劣化せず、常に綺麗なままだ。
一方で、アナログの良さは"安心"にある。場所を取るし、劣化して古くもなっていく。ただ、"そこにある"という心の充足は何にも変え難いものがある。肌で感じるぬくもりは決してデジタルでは味わうことはできない。
そこには、可視化されないが確かに人が忘れてはいけない温かさがあると思う。
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だから、何事も完璧に出来てしまうLINEより、たとえ書き損じがあったとしても比べ物にならない程手紙の方が素敵だ。
そこには、デジタルのように消えたりしない愛情があると信じているから。
だから、大切な人にしっかりと届けたい気持ちは自らの文字に起こし、手紙を認めて伝えたい。
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i'm the one who wants to be with you
deep inside i hope you'll feel it too
waited on the LINE of greens and blues
just to be the next to be with you
あなたのそばにいたい
そう思ってくれているといいな
列に並んで待っていたのさ
だからそばにいさせてくれないか
頭痛薬とチョコレートミント
脳内が忙しすぎて、何か寄り掛かるものが要る。
夢の残骸を拾い集める一方で、自分が別人になっていって、気持ちが居場所を失くしている。
少しの事で涙が溢れ、事あるごとに物思いに耽る。こうした無意識の反応で身体が勝手にバランスを取ろうとしているのだろうけれど、身体はそのスピードについていけていない。
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そこが安らぎだと忘れていたくなくて、反芻して、また居場所を失くしていく。
そこに帰るたび、胸の奥が一杯になっては一つ一つ抜け殻になっていく。
今はただ、淡い色で包まれた温かい音楽を聴いていたい。
心を掬い上げる細い手のような映画を観ていたい。
「生きてるだけで、愛。」
本谷有希子女史を連続で読了。
始め読んでるときは「メンヘラさんの恋愛話?」と思ったが勿論そんな訳ない。
葛飾北斎の富嶽三十六景、5000分の1秒、自己完結で終えられる現代人の本質に真っ向から立ち向かうような、読み終わればトンネルから抜けたような、救いのある小説だった。
二者完結が良い。心で繋がりたい。
煌めいて感動したいんだ!
Em7/Asus4/Em7/G/D
このところ頭がきちんと働いていない。
音楽を聴いても心地良いボリュームが分からないし、小説を手にとっても気付けば同じ文章を読み返したりしている。思えばご飯もあまり喉が通らない。
得体の知れない何かに支配されているような気がするが、ただ何となく正体も分かっているような気もする。不透明な焦燥感が疲労の抜けない身体を包む一方で、脳内を満たすのはスピッツが鳴らすような色鮮やかな風景。
溜息の色が変わり、血液が入れ替わる。
息が苦しいようで、何処か心地良い。
"半端な言葉でも 暗いまなざしでも
何だって俺にくれ!
悲しみを塗り潰そう
君はどう思ってる?"
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フロイトの唱えた抑圧理論を思い返す。
同じ歌を何度も聴くように、思い出の花の匂いをずっと嗅ぐように、日々の薄明光線を反芻しながら生きている。
誰も知らない土地で、思い切り地面を蹴って息が続くまで走ってみたい。
駆け終えた先に何が見えるだろう。
それが海の見える港町なら、珈琲を2つ買って通りに面したベンチに腰を下ろし、目を瞑って鳥の声と波の音を感じながら、聞き覚えのある足音が近づくのを待とう。
そして歩き出すんだ。
また花を咲かせて
勤め先にあった胡蝶蘭。
誰かがお祝いで持ってきたのか、でも何のお祝いだろう?と思っていたら、1年前に事務所が新しくなったことで頂いたものだったようで、その花を持ち帰った方が「その内の1つを1年間大切に保管していたらまた花を咲かせたんだよ」と嬉しそうに教えてくれた。
単純に、とても素敵な話だと思いました。
胡蝶蘭は値段も高くお祝いでお持ちするお花、というイメージしかなかった。長生きするけれどとてもデリケートな植物のようで、めしべに触れると受粉したと花が誤解し短期間で萎れてしまうそう。他にも場所を頻繁に移動するとストレスが掛かり長生きしないのだそうです。
そんな花を大切に、そして1年一緒に暮らしていたなんて、心が温まるようでした。
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「僕もまた花を咲かせたい」と冗談めかして言うと、その方もそう言って笑ってくれました。
胡蝶蘭は大切にすれば50年生きるそうです。
僕は素敵な人たちに囲まれている。
「異類婚姻譚」
ずっと読みたかった本谷有希子女史の「異類婚姻譚」、漸く読むことができました。
芥川賞受賞作の表題作を含め、「トモ子のバウムクーヘン」「〈犬たち〉」「藁の夫」の4篇が収録されています。
『ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた』という、一見"夫婦は似てくる"という幸せを謳ったように見える一文から始まる「異類婚姻譚」。2匹の蛇が輪になり互いを食べ合う"蛇ボール"の話が印象的でした。
「藁の夫」は文字通り人間の形をした藁と結婚した女性の話。終盤の展開は本当に恐ろしい。
この2つの作品は、どちらも"夫婦"を題材とし、SFやホラーのテイストも漂わせながら"他人との共同生活の異常さ"を鋭角に、時に不気味に描いています。とても面白かった!ただ、仮にこの作品たちを読んで「全く共感したわ」という女性と結婚したなら、果たして幸せな生活は長く続くのか…いや冗談です(笑)
行き過ぎた表現ではあるけれど、大なり小なりハッとさせられる部分はあるはず。
「トモ子のバウムクーヘン」は2児の子どもを持つ主婦がお菓子作りの際にふと感じた心象風景を描いた作品。幸せなはずなのに殺伐とした、でも共感できる部分もある痛烈な短編だと感じました。
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この小説に描かれる4つの物語を読んで感じたのは、夫婦や家族という幸せな共同生活の中にいるはずなのに、自分自身の存在理由が分からなくなる恐怖、"結婚"というある種の制約の中で望んだものと違う生活に対する閉塞感、そしてその相手に対する内なる攻撃的側面。
タイムリーでもあり、俯瞰的に自分を見つめ直す機会にもなりましたし、他人と生活をすることの難しさを再認識し、これからの自分の未来に対しての憂いを抱かざるを得ませんでした。
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どうかこの傑作が沢山の人に読まれ、それぞれの決別の助長にはならず寓話になりますように。